ご報告と お礼
もう、日記、ツイート等で察していただいている方もおられるかと思います。
10月13日朝、嫁はんが亡くなりました。
応援していただいた、支えていただいた全ての皆さんに深く御礼申し上げます。
去年の年始に嫁はんが体調が悪いと訴えました。血尿が出ました。膀胱炎くらいかなあ、程度で正月明けに泌尿器科に行きました。尿検査は問題なかったのですが、先生はなにかおかしいと思ったようで、レントゲン~CT~膀胱鏡と進んで、結果、膀胱がんの疑いが強い、という事で、地域の拠点病院に紹介状を書いていただきました。
造影CTで再精査して、やはり膀胱がん、しかもかなり大きく、深く浸潤している可能性が高い。隣のリンパも少し大きい。腫瘍の一部が尿管を圧迫していて、片方の腎機能が低下している、と。
まず、手術の予定がねじ込まれ、経尿道の内視鏡手術をしました。
削れるだけ削るも、削りきれませんでした。
次の手術までの間、術前の化学療法やりました。大きくはなりませんでしたが、そんなに小さくもならず、5月に手術。膀胱と子宮全摘、片側の卵巣摘出と骨盤内の広範囲のリンパ節郭清。
膀胱を取ったことで、ストマを作り、袋を付けてウロストミーとなりました。彼女自身の選択です。障害者手帳はぼうこう機能の4級。
郭清したリンパの病理は、陰性でした。家族皆で喜びました。
手術が終わった時は、希望しか無かったはずでした。
その後リハビリをして、少しづつ体も動くようになってきましたが、退院後3ヶ月の9月末の外来で肺転移が見つかりました。
実は症状が出る前の秋、嫁はんが自転車を注文しました。フレームを注文したのが11月。1ヶ月後に症状が出て病気が発覚しました。フレームの入荷に半年以上かかり、9月半ばに納車。ベローチェ組みしたCinelliの EXPERIENCE。
何とか体も、ある程度は動くようになっていて、乗る、止まる、脚を抜く、降りるから始めて、少しづつ慣れてきた矢先、10月半ばからまた入院。
小さいけれど多発していて、手術はできないとのことで抗がん剤で治療。
先生やスタッフとの信頼関係は良好でした。マッチングや組み合わせ、投与量などの試行錯誤の中、週末の外泊を楽しみに粘り強く、こつこつと治療を続け、少しづつCTの陰も小さくなっていました。
が、一方で、いつからか出るようになったしつこい咳は収まりませんでした。
夏前になり、化学療法も長期に及んでいたので、治療も一段落ということで休薬。外で散歩したり、軽い家事はできるぐらいには元気になってきましたが、8月の半ばあたりから、足に力が入らない、肩が上がらなくて服の脱ぎ着が出来ない、頭が痛い...目に見えて弱ってしまって、食事も徐々に食べられなくなりました。
外来の予約なんて電話して変えてもらって、病院行こうよ、って行っても。
それでも本人は「大丈夫、大丈夫」と。
9月の外来の前日まで、ふらふらになりながらも、以前からの脚であるBSモールトンで実家に移動して少しづつでもごはんをたべていました。
9月の外来に行ってはみたものの、検尿のトイレで倒れてしまい、そのまま腎泌尿外来の処置室へ。寝たまま診察ということに。
流石におかしいということで、月末の予定だったCTを急遽ねじ込んで、さらにMRI精検。結果としては脳転移が見つかり、翌々日入院。しかも多発していたので手術は出来ず、せめて腫瘍を小さくするべく、2週間ほど放射線を全面照射する事に。
で、この段階で、数週間から半年、との余命告知が出たわけです。
あとは坂道を転げ落ちるように悪くなりました。
毎日チェックしていたネットのSNSも、ぱったり見なくなってしまいました。
9/9 「はあい」

事実上、ネット上での最後の発信がこれ。これ以降、LINEでの既読がつくことは、ありませんでした。
なかなか切り出せず悩んでいたのですが、いつか言わなければ先に進めないので嫁はんに話をしました。去年の冬に膀胱がんが見つかった時以来、少し声を出して泣きました。
私なんかは、涙で声を詰まらせる事はあっても、声を上げて泣けなくなっていました。でも嫁はんは、声を上げて泣ける人でした。
そして、早かったな、と。
まあ無理もないです。治る気満々でしたから。
そして本人も合意の上で、緩和ケアに移行する方向で話を進めました。
移行するなら、早い方がいいという事になりました。
元々、嫁はんは家が大好きで、化学療法を続けている間も、週末の外泊を心の励みにして取り組んできましたので、何とか家に帰りたい、という希望で、病院の地域連携担当の看護師さんの仲介で、家のエリアでの在宅医療ネットワークのスタッフの方とも何度も面談、打ち合わせをしましたが、病状が日に日に悪化し、家の近くの病院にある緩和ケア病棟に一旦入って状況を見ながら在宅看護に移行するタイミングを図っていこう、という事になり、転院。
結果、在宅での管理は難しい、という事で、緩和ケア病棟でお世話になることに。
もう 連れて帰れないのかな。
結局、そうなりましたが。
早く外来に行こう、って言ってたけど、どのみち状況は変わらなかっただろうね。
たらればは山のようにあるけど、それはいいです。
やがて痛みと不安で取り乱すことも多くなりました。
結局はね、どんなに近くて親しい肉親でも本人の痛みは本人にしかわからない。どこまでも他人事なんですよ。だから何もしてあげられない歯痒さに、周囲も押しつぶされそうになる。
彼女がそんなに強い子じゃないのは 痛いほど知ってる。私だって、そう。世の中、そんなに強い人ばかりじゃない。
緩和ケアに行ったら、ここはこういうところなんだ、と納得しなきゃいけない。即座に体の負担になる点滴は外され、食事は本人の力で食べられるだけ食べる。最初は一般病棟とのギャップに戸惑いましたが、とにかく痛みと不安を取ることは徹底していました。
本人や家族との対話の中で、看護ワークのペースや薬の種類、投与の方法を検討し、やがて落ち着いた表情になりました。
まあ、そういう薬を使っている、という事なんですがね。彼女も、そういう段階に来た、という事。
ただでさえ乏しかった食欲がだんだん無くなってきました。ジュースだけ、ヨーグルトだけという日が交互に続き、やがて水も飲み込めなくなりました。
声を出したり、頭を掻いたり、物を飲み込んだり、普通でいられることのありがたさ。普通ってなんだ、って問われると、答えは見つからないけれど。
少しづつ会話も減っていきます。相槌も減って、やがて目を見て、うなずくだけになっていきました。
どんな声をしてたっけ、とか、会話のリズムとか、すぐに思い出せなくなるね。不思議だけど。
毎日、リアルに九相図を見ている様な、何か不思議な感じ。
娘にも、嫁はんのことを話しました。一見何も堪えていない様に見えるのですが、それ以来、明らかに感情の起伏が激しくなって、無理しているのが見え見えで、そしてどう接して良いのかわからない感じで母親を避けるようになりました。
仕方がないのかなあ。
嫁はんの身の回りの事が、自分で出来なくなって、今までは嫁はんが自分でなんでも ちゃっちゃとやってたんで、大丈夫、大丈夫って言ってるうちに、あっという間に容態が悪くなって、引き継ぎもなにもあったもんじゃない。ひとつづつ調べながら、ひとつづつ片付けます。ネットバンキングのIDもパスワードも引き継ぐ間もなく、出勤前にATMに行って一つ一つ用事を片付けたり、市役所にストマ装具の給付券の申請に行ったり。
それでもわからない事は山のようにあって、ひとつづつ片付けるしかありません。
三連休最終日の10日。昼に3桁あった血圧が、夜になって80台に落ちたと病院から電話。娘と見に行く。
翌日の11日。血圧50~80を行ったり来たり、脈も安定せず。
出勤しても、何かしないと 気が狂いそうになる。何か始めると 手につかない。そんな感じ。
いざとなったら、心の準備なんか出来るわけがない
それでも、なるようにしか、ならんわけですよ。
13日朝も病院に寄って様子を見に行ったらもう血圧が測れなくなって今日か明日かという話になる。職場に寄って当面病院に詰めると上司に置き手紙して、おじいさんおばあさん@うちの父母にタクシーで学校に寄って娘を拾ってほしいと電話。嫁はんの上のお姉さんにも電話して病院に戻る。
脈が取れなくなった。肩全体で息をしている。おじいさんおばあさんと、娘が来た。娘がジュースを買いに下の自販機に行った。気の利かない、月並みな言葉をかけ続かていたら、嫁はんが目を見開いて握っていた私の手をぐっと握って、ふーっと大きく息をついて、ふっふっと反射みたいに小さい息をして、動かなくなった。
逝かれたみたいです、と看護師さん。娘が帰って来た。娘だけ、間に合わなかった。娘はこっそり部屋を出ていった。
娘が側に来るまで確認を待ってくれていたが、おばあさんや師長さんも交えていくら促しても、娘は談話室のソファで後ろを向いて涙を流しながら、見るのが辛いので見たくない、と。
どうしても会わないと言うので、無理に付き添わせるのは諦め、ひと目だけチラ見させて、おばあちゃんに連れて帰ってもらった。
10時過ぎに先生に確認いただく。体を洗う、服を着せる、化粧をする。お姉さんが到着。ルージュだけ引いてもらう。
牧師先生がやって来た。おじいさんが牧師先生に連絡してくれていて、葬儀屋への連絡も終わっていた。 今度こそ家に連れて帰る。出発をおじいさんとお姉さんに任せ、受け入れのために帰宅。
という事で、家に戻ってきました。テレビの前にベッドを引っ張り出して寝かせて、おじいさんと彼女のお姉さんを交えて葬儀屋さんと打ち合わせ。山のようなスケジュールが決まっていき、悲しみに浸る間もありません。
打ち合わせも終わり、皆引き上げて自分一人になり、嫁はんから録画を頼まれていた、やすとものどこいこを連投で垂れ流しました。
一度は連れて帰って、見せたかったのですが。
嵐のようなスケジュールの中、寝ている嫁はんをほっぽりだして段取りに忙殺。ドライアイスで、ひんやりとしている部屋の中、一晩家で過ごした嫁はんは、ほんとに寝てる様にしか見えなくて。
嫁はんのチネリも、もう乗る人がいなくなってしまいました。

夕方、あっという間に家を出て教会に行き納棺。金曜の前夜式、翌日の葬儀をこなしました。
二人共信仰を持っている訳では無いのですが、私の両親がキリスト者であり、嫁はんもキリスト教への偏見はなく、結婚も教会でやっているので、最後も教会で、という事は決めていましたので。
容態の急な悪化であまり周囲にも話していなかったにも関わらず、前夜式、葬儀共、支えてくれた人達や友達など、予想以上の人に送ってもらいました。感謝。
そして、あっという間に終わって、小さくなって帰ってきました。
応援してくださった皆さん、気にかけてくださった皆さん、治療とケアにご尽力くださった病棟とスタッフの皆さん、送っていただいた牧師先生、葬儀社の皆さん、御見舞、お見送りに来てくださった皆さん、本当に有難うございました。
そして、おじいさん、おばあさん、本当にお世話になり、ありがとうございました。娘もよく気丈にやったと思います。あまり無理しない様に。
そして何よりも、本人が一番頑張ったと思います。今まで本当にありがとうございました。
本人も治る気満々だった中、状態の変化が早く、あっという間の事で、生前に近況をお伝えできなかった皆様には、深くお詫び申し上げます。
今までは、妻が存分に腕をふるってくれていた、たくさんの務めを、これからは娘と二人でなんとかやっていかねばなりません。
何卒よろしくお願いいたします。
彼女が緩和ケアに入って間もなく、要介護5の介護認定がおりました。結局、一度も使うこと無く終わりました。
前夜式が終わった夜、家に帰ると、装具の給付通知と給付券が届いていました。もう使うこともありません。
そして、家には余った装具と蓄尿バッグが残りました。
まあ、そんなもんでしょうか。
彼女の誕生日が11月3日。私の誕生日が10月23日。
私が誕生日を迎えると、同い年になります。
そして、10日もすると、あっという間に彼女が年上になっていました。
その繰り返しでした。今までは。
これからは、もう、追い抜かれることはありません。私だけが歳を重ねていきます。
そして今まで、嫁はんを交えた仲間内の宴会では、いつも嫁はんが仕切っていたことに、ふと気づくわけです。
...どうすんだよ。宴会で仕切る人がいなくなるじゃないか。
10月13日朝、嫁はんが亡くなりました。
応援していただいた、支えていただいた全ての皆さんに深く御礼申し上げます。
去年の年始に嫁はんが体調が悪いと訴えました。血尿が出ました。膀胱炎くらいかなあ、程度で正月明けに泌尿器科に行きました。尿検査は問題なかったのですが、先生はなにかおかしいと思ったようで、レントゲン~CT~膀胱鏡と進んで、結果、膀胱がんの疑いが強い、という事で、地域の拠点病院に紹介状を書いていただきました。
造影CTで再精査して、やはり膀胱がん、しかもかなり大きく、深く浸潤している可能性が高い。隣のリンパも少し大きい。腫瘍の一部が尿管を圧迫していて、片方の腎機能が低下している、と。
まず、手術の予定がねじ込まれ、経尿道の内視鏡手術をしました。
削れるだけ削るも、削りきれませんでした。
次の手術までの間、術前の化学療法やりました。大きくはなりませんでしたが、そんなに小さくもならず、5月に手術。膀胱と子宮全摘、片側の卵巣摘出と骨盤内の広範囲のリンパ節郭清。
膀胱を取ったことで、ストマを作り、袋を付けてウロストミーとなりました。彼女自身の選択です。障害者手帳はぼうこう機能の4級。
郭清したリンパの病理は、陰性でした。家族皆で喜びました。
手術が終わった時は、希望しか無かったはずでした。
その後リハビリをして、少しづつ体も動くようになってきましたが、退院後3ヶ月の9月末の外来で肺転移が見つかりました。
実は症状が出る前の秋、嫁はんが自転車を注文しました。フレームを注文したのが11月。1ヶ月後に症状が出て病気が発覚しました。フレームの入荷に半年以上かかり、9月半ばに納車。ベローチェ組みしたCinelliの EXPERIENCE。
何とか体も、ある程度は動くようになっていて、乗る、止まる、脚を抜く、降りるから始めて、少しづつ慣れてきた矢先、10月半ばからまた入院。
小さいけれど多発していて、手術はできないとのことで抗がん剤で治療。
先生やスタッフとの信頼関係は良好でした。マッチングや組み合わせ、投与量などの試行錯誤の中、週末の外泊を楽しみに粘り強く、こつこつと治療を続け、少しづつCTの陰も小さくなっていました。
が、一方で、いつからか出るようになったしつこい咳は収まりませんでした。
夏前になり、化学療法も長期に及んでいたので、治療も一段落ということで休薬。外で散歩したり、軽い家事はできるぐらいには元気になってきましたが、8月の半ばあたりから、足に力が入らない、肩が上がらなくて服の脱ぎ着が出来ない、頭が痛い...目に見えて弱ってしまって、食事も徐々に食べられなくなりました。
外来の予約なんて電話して変えてもらって、病院行こうよ、って行っても。
それでも本人は「大丈夫、大丈夫」と。
9月の外来の前日まで、ふらふらになりながらも、以前からの脚であるBSモールトンで実家に移動して少しづつでもごはんをたべていました。
9月の外来に行ってはみたものの、検尿のトイレで倒れてしまい、そのまま腎泌尿外来の処置室へ。寝たまま診察ということに。
流石におかしいということで、月末の予定だったCTを急遽ねじ込んで、さらにMRI精検。結果としては脳転移が見つかり、翌々日入院。しかも多発していたので手術は出来ず、せめて腫瘍を小さくするべく、2週間ほど放射線を全面照射する事に。
で、この段階で、数週間から半年、との余命告知が出たわけです。
あとは坂道を転げ落ちるように悪くなりました。
毎日チェックしていたネットのSNSも、ぱったり見なくなってしまいました。
9/9 「はあい」

事実上、ネット上での最後の発信がこれ。これ以降、LINEでの既読がつくことは、ありませんでした。
なかなか切り出せず悩んでいたのですが、いつか言わなければ先に進めないので嫁はんに話をしました。去年の冬に膀胱がんが見つかった時以来、少し声を出して泣きました。
私なんかは、涙で声を詰まらせる事はあっても、声を上げて泣けなくなっていました。でも嫁はんは、声を上げて泣ける人でした。
そして、早かったな、と。
まあ無理もないです。治る気満々でしたから。
そして本人も合意の上で、緩和ケアに移行する方向で話を進めました。
移行するなら、早い方がいいという事になりました。
元々、嫁はんは家が大好きで、化学療法を続けている間も、週末の外泊を心の励みにして取り組んできましたので、何とか家に帰りたい、という希望で、病院の地域連携担当の看護師さんの仲介で、家のエリアでの在宅医療ネットワークのスタッフの方とも何度も面談、打ち合わせをしましたが、病状が日に日に悪化し、家の近くの病院にある緩和ケア病棟に一旦入って状況を見ながら在宅看護に移行するタイミングを図っていこう、という事になり、転院。
結果、在宅での管理は難しい、という事で、緩和ケア病棟でお世話になることに。
もう 連れて帰れないのかな。
結局、そうなりましたが。
早く外来に行こう、って言ってたけど、どのみち状況は変わらなかっただろうね。
たらればは山のようにあるけど、それはいいです。
やがて痛みと不安で取り乱すことも多くなりました。
結局はね、どんなに近くて親しい肉親でも本人の痛みは本人にしかわからない。どこまでも他人事なんですよ。だから何もしてあげられない歯痒さに、周囲も押しつぶされそうになる。
彼女がそんなに強い子じゃないのは 痛いほど知ってる。私だって、そう。世の中、そんなに強い人ばかりじゃない。
緩和ケアに行ったら、ここはこういうところなんだ、と納得しなきゃいけない。即座に体の負担になる点滴は外され、食事は本人の力で食べられるだけ食べる。最初は一般病棟とのギャップに戸惑いましたが、とにかく痛みと不安を取ることは徹底していました。
本人や家族との対話の中で、看護ワークのペースや薬の種類、投与の方法を検討し、やがて落ち着いた表情になりました。
まあ、そういう薬を使っている、という事なんですがね。彼女も、そういう段階に来た、という事。
ただでさえ乏しかった食欲がだんだん無くなってきました。ジュースだけ、ヨーグルトだけという日が交互に続き、やがて水も飲み込めなくなりました。
声を出したり、頭を掻いたり、物を飲み込んだり、普通でいられることのありがたさ。普通ってなんだ、って問われると、答えは見つからないけれど。
少しづつ会話も減っていきます。相槌も減って、やがて目を見て、うなずくだけになっていきました。
どんな声をしてたっけ、とか、会話のリズムとか、すぐに思い出せなくなるね。不思議だけど。
毎日、リアルに九相図を見ている様な、何か不思議な感じ。
娘にも、嫁はんのことを話しました。一見何も堪えていない様に見えるのですが、それ以来、明らかに感情の起伏が激しくなって、無理しているのが見え見えで、そしてどう接して良いのかわからない感じで母親を避けるようになりました。
仕方がないのかなあ。
嫁はんの身の回りの事が、自分で出来なくなって、今までは嫁はんが自分でなんでも ちゃっちゃとやってたんで、大丈夫、大丈夫って言ってるうちに、あっという間に容態が悪くなって、引き継ぎもなにもあったもんじゃない。ひとつづつ調べながら、ひとつづつ片付けます。ネットバンキングのIDもパスワードも引き継ぐ間もなく、出勤前にATMに行って一つ一つ用事を片付けたり、市役所にストマ装具の給付券の申請に行ったり。
それでもわからない事は山のようにあって、ひとつづつ片付けるしかありません。
三連休最終日の10日。昼に3桁あった血圧が、夜になって80台に落ちたと病院から電話。娘と見に行く。
翌日の11日。血圧50~80を行ったり来たり、脈も安定せず。
出勤しても、何かしないと 気が狂いそうになる。何か始めると 手につかない。そんな感じ。
いざとなったら、心の準備なんか出来るわけがない
それでも、なるようにしか、ならんわけですよ。
13日朝も病院に寄って様子を見に行ったらもう血圧が測れなくなって今日か明日かという話になる。職場に寄って当面病院に詰めると上司に置き手紙して、おじいさんおばあさん@うちの父母にタクシーで学校に寄って娘を拾ってほしいと電話。嫁はんの上のお姉さんにも電話して病院に戻る。
脈が取れなくなった。肩全体で息をしている。おじいさんおばあさんと、娘が来た。娘がジュースを買いに下の自販機に行った。気の利かない、月並みな言葉をかけ続かていたら、嫁はんが目を見開いて握っていた私の手をぐっと握って、ふーっと大きく息をついて、ふっふっと反射みたいに小さい息をして、動かなくなった。
逝かれたみたいです、と看護師さん。娘が帰って来た。娘だけ、間に合わなかった。娘はこっそり部屋を出ていった。
娘が側に来るまで確認を待ってくれていたが、おばあさんや師長さんも交えていくら促しても、娘は談話室のソファで後ろを向いて涙を流しながら、見るのが辛いので見たくない、と。
どうしても会わないと言うので、無理に付き添わせるのは諦め、ひと目だけチラ見させて、おばあちゃんに連れて帰ってもらった。
10時過ぎに先生に確認いただく。体を洗う、服を着せる、化粧をする。お姉さんが到着。ルージュだけ引いてもらう。
牧師先生がやって来た。おじいさんが牧師先生に連絡してくれていて、葬儀屋への連絡も終わっていた。 今度こそ家に連れて帰る。出発をおじいさんとお姉さんに任せ、受け入れのために帰宅。
という事で、家に戻ってきました。テレビの前にベッドを引っ張り出して寝かせて、おじいさんと彼女のお姉さんを交えて葬儀屋さんと打ち合わせ。山のようなスケジュールが決まっていき、悲しみに浸る間もありません。
打ち合わせも終わり、皆引き上げて自分一人になり、嫁はんから録画を頼まれていた、やすとものどこいこを連投で垂れ流しました。
一度は連れて帰って、見せたかったのですが。
嵐のようなスケジュールの中、寝ている嫁はんをほっぽりだして段取りに忙殺。ドライアイスで、ひんやりとしている部屋の中、一晩家で過ごした嫁はんは、ほんとに寝てる様にしか見えなくて。
嫁はんのチネリも、もう乗る人がいなくなってしまいました。

夕方、あっという間に家を出て教会に行き納棺。金曜の前夜式、翌日の葬儀をこなしました。
二人共信仰を持っている訳では無いのですが、私の両親がキリスト者であり、嫁はんもキリスト教への偏見はなく、結婚も教会でやっているので、最後も教会で、という事は決めていましたので。
容態の急な悪化であまり周囲にも話していなかったにも関わらず、前夜式、葬儀共、支えてくれた人達や友達など、予想以上の人に送ってもらいました。感謝。
そして、あっという間に終わって、小さくなって帰ってきました。
応援してくださった皆さん、気にかけてくださった皆さん、治療とケアにご尽力くださった病棟とスタッフの皆さん、送っていただいた牧師先生、葬儀社の皆さん、御見舞、お見送りに来てくださった皆さん、本当に有難うございました。
そして、おじいさん、おばあさん、本当にお世話になり、ありがとうございました。娘もよく気丈にやったと思います。あまり無理しない様に。
そして何よりも、本人が一番頑張ったと思います。今まで本当にありがとうございました。
本人も治る気満々だった中、状態の変化が早く、あっという間の事で、生前に近況をお伝えできなかった皆様には、深くお詫び申し上げます。
今までは、妻が存分に腕をふるってくれていた、たくさんの務めを、これからは娘と二人でなんとかやっていかねばなりません。
何卒よろしくお願いいたします。
彼女が緩和ケアに入って間もなく、要介護5の介護認定がおりました。結局、一度も使うこと無く終わりました。
前夜式が終わった夜、家に帰ると、装具の給付通知と給付券が届いていました。もう使うこともありません。
そして、家には余った装具と蓄尿バッグが残りました。
まあ、そんなもんでしょうか。
彼女の誕生日が11月3日。私の誕生日が10月23日。
私が誕生日を迎えると、同い年になります。
そして、10日もすると、あっという間に彼女が年上になっていました。
その繰り返しでした。今までは。
これからは、もう、追い抜かれることはありません。私だけが歳を重ねていきます。
そして今まで、嫁はんを交えた仲間内の宴会では、いつも嫁はんが仕切っていたことに、ふと気づくわけです。
...どうすんだよ。宴会で仕切る人がいなくなるじゃないか。
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